2017年2月22日水曜日

神楽坂の「住民」主体のまちづくりのこれから 記録

2017(平成29)年23日に行われた、
神楽坂まちづくり住まいづくり塾 「今あらためて!神楽坂まちづくりシリーズ」
神楽坂の「住民」主体のまちづくりのこれから
の 詳細記録です。

■日時:2017(平成29)年23日(金) 19:00-21:00
■場所:高齢者福祉施設神楽坂 1F 地域会議室

■開会:司会 NPO粋なまちづくり倶楽部 山下理事長
この塾は法人化の前から続けている。もともとこのような専門的まちづくり勉強会であったが、最近はよもやま話が多くなっていた。昨今神楽坂のまちに大きな動きがあり、今改めてまちづくりの専門的な勉強会を行うこととした。あまり杓子定規ではない、固くないシリーズとしていきたい。

プレゼンター:中島伸東京大学助教 
Ÿ   まちづくり、都市デザインを専門としており、街の現場から勉強を続けている。神楽坂には東大博士課程に在籍していた、2007年ごろから関わっている。
Ÿ   今日のテーマは、「神楽坂の「住民」主体のまちづくりのこれから」。住民とはなにか、いっしょに改めて考えたい。
Ÿ   神楽坂のまちづくりのテーマとは何だろうか。「粋なまちづくり」といわれるが、その意味は「変化を受け入れ、変わりながら守り続ける、すなわち「動態的都市保全」の取り組みといえるだろう。動きながら都市を保ち全うなカタチにしていくという意味である。
Ÿ   私は神楽坂以外のまちづくりにも取り組んでいるが、神楽坂で特徴的なのは、毎回のようにそもそもまちづくりとは何か、どのような経緯があるかという話になる。そういうことは他のまちではあまりない。過去や現在をベースにしながら次はどうするかという話をするのは大事なことである。今日の主題は「今、改めてこれから」だが、最初に神楽坂のまちづくりの経緯を振り返りたい。

【神楽坂まちづくりの経緯】
Ÿ   神楽坂とは、都心部の商業地でありながらかつての花街の歴史や文化を伝えるまちである。商業地だが住民も多い。都心の住商混在地におけるまちづくりの先進事例である。
Ÿ   1990年前後より、まちづくりの会が発足し、まちづくり憲章がつくられるなど、まちづくりが本格的に始まった。2000年ごろより超高層マンション建設をめぐっての住民運動が起こり、まちづくり活動が活性化した。その後住民主導による地区計画ができた。
Ÿ   神楽坂では多くの主体の関与していることが特徴。行政主導から地域主導へ。地域資源(文化など)を生かしたまちづくり活動が展開されている。他の都心の住商混在地における保全型まちづくりへの示唆に富む。
Ÿ   神楽坂では歴史と文化の継承が重視されている。空襲のため戦前のまちなみは残されていないが、敷地形状は継承され、それが沿道景観の基礎を作っている。2007年にテレビドラマ「拝啓父上様」が放映され、それを機として来訪者や新規出店が増加した。
Ÿ   神楽坂では、何を維持保全することで神楽坂らしさが維持されるのか、常に議論されている。「神楽坂らしさ」は、昔はあまり言われていなかったようだが、近年よく議論されるようになった。路地界隈だけではなく、表通りの雰囲気も合わせてのことである。「らしさ」の議論は、開発や更新によって失われるものとワンセットである。
Ÿ   ここ10年の変化は大きい。多様な主体が関わるようになっている。NPO粋なまちづくり倶楽部、まちづくりの会、株式会社粋まち、花柳界、行政、町会、まち飛びフェスタ委員会など多様な主体がある。
Ÿ   建物規模も変化している。新宿区は景観行政団体として高さ規制を導入しており、そのための景観計画基礎調査に東大が関わったのが、私が神楽坂に関わるきっかけである。それ以降も神楽坂ではいろいろな動きがあり、その経緯および東大デザイン研の実践をまとめたのが本日の資料である。そのときそのときでテーマが異なっている。
Ÿ   まちづくりの時期を区分すると、1980年代後半に歴史を生かしたまちづくりが始まり、97年にまちなみ環境整備事業を契機として住民が関与しはじめた。2000年に高層マンション紛争があり、このままではまちを守れないという意識からNPO粋なまちづくり倶楽部が立ち上がり、まちづくり活動が展開されはじめた。いろいろな提案が住民から行政に出されるようになった。さまざまな組織ができ、行事がはじまった。今ではさまざまな活動が町で起きており、活動も多様化している。
Ÿ   昭和20525日の大空襲で神楽坂は灰燼に帰した。雑学神楽坂によれば、戦後、「何より先に戻ってきたのは三味線の音」であった。物は変わるが人の活動、魂からまちが再生していく。

【神楽坂とはどういうまちか】
Ÿ   早い段階から「粋」という言葉がでてくる。飯田堀の再開発がきっかけとなり70-80年代から始まった。92年にまちづくり推進計画ができ、伝統と現代が織り交ざったまちづくりが始まった。94年にまちづくり憲章ができた。これはまちづくりの基本的な考えを示したものであり、今でも通じる。97年に神楽坂通り沿道1-5丁目地区まちづくり協定が憲章と協定の2段階構成となった。まちづくり協定はまちなみ環境整備事業の導入を目指してつくられたものである。まちづくりキーワード集 は97年に刊行され、まちがどのようにあるべきかあってほしいかを考えるものとして編集された。町のイメージやよいところを抽出しており、「ひとにやさしいまち」、「安心できるまち」、「多様性のあるまち」、「粋に未来を作るまち」という構成となっている。今見ても、これがベースとなって議論が深まったと思う。
Ÿ   99年に超高層マンション問題が起こり、住民が訴訟を起こしたが敗訴した。マンション反対運動に呼応したまちづくりが始まり、大学もこのときよりまちづくり支援を開始した。はじめに基本的調査を行い、神楽坂が江戸時代からどう変わったか、敷地割りの変遷を調べた。時代を追うごとに集約化、統合化が進んだことがわかった。マンション計画については代替案を3案作成したが、結果は当初案に近いものが建設された。その後、地区計画作成へという動きになり、そのための地元組織として興隆会ができた。それまでは商業者、町内会などがまちづくりの主体であったが、地区計画の合意組織として興隆会ができた意味は大きい。
Ÿ   以降、まちづくり活動がさまざまに拡大していく。空き店舗での公開ワークショップ、神楽坂地図カフェ、登録文化財調査、シンポジウム、まちとびフェスタ、伝統芸能イベントなどである。しかしその間にも路地内の再開発が進んだ。商業開発により地域景観の変化が進んだ。一方、神楽坂に惹かれて新しい人たちが入ってきて、それぞれの神楽坂を表現している。それにつれて、ますます神楽坂らしさの議論が多くなった。
Ÿ   2009-10年には粋なまちなみルール検討のワークショップが開かれ、粋なまちなみ規範がまとめられた。神楽坂通り沿道と路地界隈に分け、それぞれ7項目が挙げられている。地区計画は数字で表現するものだが、ここでは表現方法を工夫した。10年にはキーワード第2集が編集された。第1集以後それまでの活動の記録をまとめ、まちづくりの理念を未来につなげていくためにつくられた。まちのルールをどうやって定めていくかも議論された。10年後のまちへの提言集であり、第1集から比べると具体的な提案が多い。
Ÿ   粋なまちづくりとは動態的都市保全であり、変化を受け入れ、変わりながら守り続けることだと考えられる。多様な要素が新旧調和するということは、将来にわたってさまざまなものやことの密度が高まっているはずだが、豊かさを実感できているだろうか。課題はたくさんあるが、その様子や要素も多様である。

【住民とは誰か】
Ÿ   まちづくりに関わる住民とは誰か。多様な主体がある。ひとつのグループの中にも多様な人たちがいる。住民には新と旧がいる。新しいマンションができることは、従来の住民から見るとさびしく、望ましくないことである。新旧住民がどこかで知り合い、「はじめまして」と挨拶を交わし、「最近越してきました、あのマンションに住んでます」「ああ」となる。新旧住民のあつれきが感じられる挨拶の様子が想像される。移ってきた人は神楽坂の魅力を感じ、神楽坂が好きで引っ越してきたが、前から住んでいた人にとっては複雑である。どういう距離感でまちづくりが進むのか。
Ÿ   いわゆる移民第一世代は、可能性にあふれる人たちで、神楽坂の環境にほれて移り住んだ。旧住民、 老舗の移民にとっては、自分たちの環境はあたりまえのものとなっている。良い住環境なので地代が高い。意識が高い人たちはその価値観を受け入れ、それで進める。次の2代目、3代目になると相続問題が発生し、変わってしまうものもある。世代の新旧により価値観は変わる。
Ÿ   無関心か、能動的に動けるかにより、仲間への巻き込み方が変わる。神楽坂通りと路地側は空間のカタチが違うが、近年は路地にも新しい表通りのようなビルが出来始めた。奥の店は置き看板を表通り沿いに置き、通行客を引き込もうとするが、それによって歩きにくいことになる。何に引かれて人が神楽坂に来ているか。神楽坂には奥行きの深さがあり、表の店と路地の店のどっちが神楽坂の環境を使いながら商売しているか。今後、どうやって表と裏の人たちの関係性をつくっていきながら商売を続けられるか。
Ÿ   行政機構は個と全体、縦と横、国と区などに分かれており、縦割りが問題になっている。大久保通りの問題にしても、部局ごとに話をしても埒が開かない。では誰だったらできるのか。住民が、総合的にまちの問題として取り組むのであろう。一方まちづくりとプライバシーの問題がある。そっとしておいてほしい、隠微な世界、知れないことの魅力もある。まちづくりは、自分の土地でないところの土地について発言するという本質がある。プライバシーについてどう考えるか。調査郊外という言葉もあるが、どこまで踏み込めるか。
Ÿ   いかにして多様な価値観の人を巻き込めるかが大事である。議論すべきときと行動すべきときでは対象の考え方が異なる。少人数でアクション起こすべきときもある。
Ÿ   「牛込神楽坂8の字構想」によって、One神楽坂の実現を図りたい。神楽坂でも坂上、坂下商店街の連携が望ましい。8の字構想では大久保通りが真ん中になる。広域の多様な主体を巻き込んでひとつの牛込神楽坂にできるか。
Ÿ   今日は、「普段、神楽坂で見かける自分とは異なる立場のひととの関係性を改善し、まちが進展する粋な一言アクション」を考えてみたい。近所の人たちと仲良くなるにはどうしたらよいか。どうやって広げられるか、どのようなメッセージの出し方をすればよいか。そのようなことも含めて、ひとりずつ意見や感想を伺いたい。

■参加者の自己紹介、意見、感想
 参加:20
Ÿ   移民第一世代であり、すぐ隣の袋町に住んでいる。神楽坂には、10年くらい前から愛着を感じるようになった。
Ÿ   大学でまちづくりの勉強をしている。八王子中町のまちづくり支援をしている。神楽坂では中町でやっていない多くのことをやっていることがわかった。
Ÿ   赤城神社近くに住んでおり、サロンに参加している。
Ÿ   高田馬場在住。路地や情緒にあこがれがある。
Ÿ   神楽坂新住民であり東五軒町に2年前から住んでいる。将来独居老人になることを見越して引っ越してきた。予想以上にすみやすい。なぜ気持ちよいのか考えてみると、ヒューマンスケールであり、犬の散歩をしていて人に出会う。神楽坂通りはプロムナードのようであり、今の道幅を維持したい。商店が元気であり、そこで買い物できると気持ちよい。チェーン店ではないところから買いたい。
Ÿ   神楽坂旧人類であり、実家や店が大久保通り拡張区域に入っている。神楽坂は老人が住みやすい街で2位だそうだ。8の字計画は、故坂本二朗次郎さんもやりたいといっていた。大久保通りは着工せざるを得ない状況でどうするか。今あるものではなく新しいものも必要ではないか。神楽坂の賃料は日本橋より高いという話を聞いたが、そのように地価が高いとどうしても飲食になりやすい。神楽坂は京都にはかなわない面があり、単に京都の模倣は出来ない。
Ÿ   神楽坂1世代目。神楽坂通りの坂上と坂下の違いを感じる。牛込中央通りは、8の字よりも南の市谷よりはまだ商店が残っている。 
Ÿ   神楽坂には15年ほど出店し、2008年からはギャラリーフラスコも出店している。最初は意気込んで始めた。ギャラリーには全国から展示したい人が来る。神楽坂でやりたいという人が多い。1週間 フラスコで展示し、また来年という人も多い。近年神楽坂に対してやや冷めてきており、皆さんの意見を聞きたいと思う。
Ÿ   粋なまちづくり倶楽部理事、大田区在住、大阪出身。法政大学に1988年入学で、そのころは神楽坂にはあまり人がいなかった。都市計画の仕事をしており、一度神楽坂を離れて10年経って戻ってきたら大きく変わっていた。神楽坂はいろいろなことを自前でやるという感じが強い。
Ÿ   神楽坂には2000年から住んでおり、以来、まち飛び実行委員長などいろいろ関わっている。文化的なことが中心。最初はどうやったらまちの人と知り合いになれるか、新住民であり、まち飛びフェスタなどいろいろイベントやらなければならないので、初めてのところにいきまくり、あれこれ買ったり貢献するようにした。ここでしか買い物をしない雰囲気をつくった。そのうちに、先方からがお茶を出してくれたりするようになった。自分をある程度鼓舞する必要があり、そうでないとだれる。先日、スペイン関係の旅行者ライターに神楽坂を案内する機会があり、スペイン人が知らない東京として芸者さん、新内、楽山などの店にお連れした。風呂敷の包み方ひとつにしても、日本人はよくものを考えるなと感心された。風呂敷の包み方やお茶の入れ方など、ここには総合芸術としての美、暮しの中の美がある。矢来能楽堂では、300年使った古い能面と新しい能面をいっしょに使っていたが、ここでは能面は芸術品ではなく生活品であることがわかった。神楽坂のそういうよさを改めて感じた。
Ÿ   神楽坂で生まれ育った。生家の店は今年初めで閉店した。母は92歳で、ずっと店に出ていた。小さな店だがいろいろな人が来る。買ってくれない人も多い。まがいものはみんな嫌いで、本物を見て感動するが高いので買わない。しかし母もお客さんとちゃんと話ができることを楽しんでいた。まちは人でできている。このまちには、きちんと正面切ってよいものを探している人が多い。それを大事にしている老舗は、誇りを持ってやっていける。神楽坂では、長くやっている店はしっかりしている。本物好きであり本物に敏感だ。
Ÿ   神楽坂の老舗店主。最近マスメディアの取材が多い。平成9年、まちづくり協定の検討中に、前NPO理事長の寺田さんから、まちづくりにビジョンを提示すべきといわれ反発した。それは自分たちがやるべきことで人に押し付けられるものではないと考えていた。そのころ神楽坂は周回遅れのまちといわれ、閑古鳥鳴いていた 当時の商店会役員もがんばっていたのだが。平成3年に新宿区まちづくり推進地区となり、その後まちづくり憲章が出来たのだが、当時はまちづくりに関わっていなかった。日置さん平成12年にアインスタワー計画が持ち上がり、近くに兵庫横丁もありその計画は困るとして反対運動が起こった。当時元気だった立壁さんも心配されていた。日置弁護士が反対闘争の弁護団長的な役割を担ってくださったが、裁判では当時の判例に沿い完敗であった。その後地区計画へと進んでいく。そのころからやっと神楽坂が世間に認知されるようになった。まちの景観がこれからどうなるか 守るだけでなく新しく作ることが必要だろう。
Ÿ   牛込中央通り沿い30年住んでいる。以前は暗い夜道を歩いて帰ったが、近年はにぎわっている。この地域の商店街として神楽坂通り、牛込中央通り、外苑東通りがあったが、神楽坂はすごい。まちなみ規範つくるのに定性的感性が活かされていることは大事である。数字がすべてではない。一方、週刊ダイアモンドの記事で、勝ち組マンションとして価値が50%アップしたアインスタワーがトップクラスにランクされていた。そういう経済評価もある。神楽坂に引っ張られて牛込中央にも人が増えた。 
Ÿ   毘沙門天前の福屋さんの2階で都市計画デザイン事務所を営んでおり、そこに来て10年になる。ある意味、神楽坂で商売をしている。近年、地方に行き神楽坂から来たというと、おしゃれなまちですねと言われることが多くなった。神楽坂ブランドが地方まで浸透しつつあり、外から見るとうらやましい状況になっている。神楽坂のまちづくりに飽きたと感じたことはない。ずっと続けていることもある一方で、新しいこともあるからではないか。障がい者に対して、ハードだけではなく心のバリアフリーで対応しようというUDBBという活動も始めた。
Ÿ   好きなまちに住みたいと考え、勤め先に近く好きだった神楽坂に引っ越してきた。実際住んで楽しい。夜遅くでも安全。ボランティアにも参加し始めた。大久保通り沿いのマンションに住んでいるが、東京都が最近用地買収ということで説明に来た。拡張計画がわかっていて入ったが、戦後すぐの拡張計画を今更実施するというのを前向きに捉えられない。8の字計画は前向きに進められると良い。
Ÿ   多摩地区で育った。勤務先に飯田橋から歩くことがあるが、なかなかここまでは来る機会がなく、今日はハレの気分で上がってきた。
Ÿ   ずっと3丁目在住。長く住めばよいというものではなく、子どものころの遊び範囲は外堀の土手公園方面であった。神楽坂らしさについては、あまり議論されていない。今の賑わいは単にラッキーなだけ。らしさについて議論するしくみが全くない。まちづくり協定は環境整備事業のためであり、真の協定ではない。アインスタワー裁判に負けたのは提訴者が地権者でなかったためである。地区計画など法律で縛るとなると住民から離れる。そうではなく日常的な町式目的なものをつくり、主体は住民に預けるべきだ。大久保通り拡幅問題についても、NPOではなく、当事者である5丁目が中心となるべきだ。 
Ÿ   ちょうど、かぐらむら90号を出したところ。今日の中島さんの「神楽坂に愛着をもっていることを共有しているということを共有している」という言葉が刺激的だった。神楽坂の楽しみ方は多様化、メガからギガへと高密度化しており、単純に粋なまちでいいねではすまなくなった。ものすごく大きくなってしまったために、もはや粋という言葉では共有できない。20年前だったら粋なまちづくり倶楽部ということばがすっと入ったが、時間差が生じている。それが課題となっている。共有していると思っていたことが共有されていない。それは多様性と密度が上がったためである。15年間取材してきてそのように思う。

■まとめ
Ÿ   振り返らなければいけないことがたくさんある。これが不足ということもある。住民同士でわかりにくさ、距離間の違いなどいろいろなことが起こっている。これを打破するにはユニークさ、ユーモアなど、これまでと違うところからつなげることが必要だ。煮詰まったものがほかの人には食べにくい。自分なりの神楽坂、外から見た神楽坂、距離感の違い、単純な観光まちづくりではなく外からみる鏡など、さまざまな視点を取り入れることが必要だろう。


以上

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